永井均『世界の独在論的存在構造: 哲学探究2』
永井についてはほとんど噂でしか聞いたことがなったけど、(途中までだけど)読んでみて、予想したより明晰という感想
(ちなみに、私の永井均への印象は、@Raprto氏とサークルの友人からくるものによって形成されていた。かれらの話を聞いてるときに生じた疑問のいくつかは永井自身によって回答されていた。) 第一基準とかが面白い
ルイス・キャロルのパラドックスのところはよく分からなかったけど
後で永井均に詳しい人と考えて思いついた解釈:
メタレベルの「ならば」
A A⇒B
------------
B
の線の方は「本物」 (それ以上メタ言語から規則を与えなくても、それ自身で規則に従わせることができる) という考え
通常の数理論理学的構成ではそういうことではなく、木が証明になっていること、および証明可能性の定義のための素材を与えているだけだけど (だから線じゃなくて ⊢の方を使ったほうがいいか)。
対象レベルの「ならば ⇒」とメタレベルの「ならば ⊢」を「ほんとうに」をつけて区別する
「Aかつ (AならばB) ほんとうにならば B」
「 A かつ (AならばB) かつ (A かつ (AならばB) ほんとうにならば B) ほんとうにほんとうにならば B」
永井の場合、「現に」は「ならば」にではなく、「ならば」で接続されている命題の方に修飾しているけど。
(そうするとどういうことになるのかよくわからない。)
唯物論的独我論者がいう「特別性」は、たとえば「ayu-mushiはayu-mushiである時点で特別だ」というような特別性ではダメなのか
ayu-mushiが持つ性質によって〈私〉が発生しているというより、つまり個体に対する物理法則というものがあって、ayu-mushiという個体に対してだけ〈私〉が発生する、という法則なのかもしれない。
(このことは、「ayu-mushiと数的に同一である」という性質を考えても同じことだけど。
質的ではなく数的な同一性なので、ayu-mushiクローンなどを持ち出しても、それも〈私〉が発生する、という法則なわけではない。)
こっちのほうが反論するのが難しいだろう。(反論するのが難しいと何なのかというのはあるけど)
そもそも法則というものを持ち出さなくても、「理由はともかく、ayu-mushiこそが〈私〉である」という物理的 (物理的といっていいのか?) 還元を行うことはできる。
唯物論を、全ては物理法則で説明できるとするのではなく、物理的還元を行うところに留めるならば、それでも問題ないはず。
(それなら物理的に記述可能な神秘は物理的に説明可能でなくても唯物論に反さないことになるけど(単なる物体の運動として理解されたポルターガイストとか?))
われわれは通常意味論を与えるメタ言語として想定されるのが指標詞の無い言語だからそれを形而上学的に基本的な構造だと思ってしまっているだけ?
それぞれの表象体系はそれぞれにとって自然な形而上学を従えており、公的言語を使用することはそれ自体ある種の形而上学に自然なバイアスを与えることになる、みたいな
「端的/自然的性質」という言葉を表象体系に相対化する(これは「私」の相対化とは別のレベル(メタレベル?)での相対化だけど)
「自然言語の表層形式からは1項述語に見えるが、本当は (論理形式?) 2項述語なのだ」というとき、「本当は」というのはどういうことか。
スポットライト説論者が「絶対的現在」というたび、永久主義者がその絶対的現在をスポットライト説論者の発話の時点に相対化した意味論を与える。
スポットライト説論者は、「「2000年5月11日には (2000年5月11日が絶対的現在だ) った」ということはない。ほかでもない、2022年10月14日こそが絶対的現在なのだ。」というが、それを言ったとき、「絶対的現在」が、それを言った時点を――仮に時制オペレーターの内部に現れようと――指すというふうな意味論を永久主義者が与える。
それによって、永久主義者はスポットライト説論者の発言を真なものとして解釈する。
しかしこの言い方だと「○○にとってP」というのを、「○○によって (Pを意味(?)する) 発話Sが言われたとき、その発話は真だ」という意味と解している
「xにとってP」を考えるということは、真偽というものを、命題Pの関数でなく、命題Pとxの関数と考えるということ?
予期や記憶でしかないという現在主義は代用主義の一種なのか?
代替視点主義
脚注8
…
If our patterns of projection cause our moral judgments to be what they are (and we’re not just getting lucky when we get
things right), then it would seem that the truth of these judgments depends on our patterns of projection. But Blackburn is not happy with this because it makes his view look like something ordinary people would not believe because most people don’t think that the facts about what’s right or wrong depend, in general, on what people think is right or wrong. What’s a quasi-realist to do?
Out of the analytic philosopher’s tool box comes the rigid designator. We can say that moral terms implicitly refer to the sensibilities that we happen to have in the actual world. Thus, when we consider a possible world in which people have different moral sensibilities, ones that we find abhorrent, we can still say that the things we think of as wrong are wrong in their world, too, because the content of “wrong” is determined by our sensibilities and not by theirs.
See Davies and Humberstone (1980).
We will discuss this strategy in greater detail in Section 2.4.3, but for now I’ll simply note that this strategy only pushes the bump in the carpet. Taking the irksome dependence of moral truth on our actual moral sensibilities and packing it into the meanings of moral terms gets rid of the straightforward counterfactual dependence discussed above, but only by introducing a new, equally irksome kind of dependence.
「絶対的に p」という表象 r が真なのは、r が具体的にトークン化されている仕方に相対的に p が真であるとき、そのときに限る。
vs.
「aに相対的に P(x)」つまり「P[a/x]」という表象 r が真なのは、開文P(x)に現れる自由変数を無かったことにして閉文 (絶対的にp) にした上で、aを命題オペレータ化したFromPerspective[a]を使って
FromPerspective[a]((絶対的に) p)
と表したものが成り立つとき、そのときに限る。
まず0項述語として習得されて、それが相対化されて1項述語になるというようなとき、それを様相のように表したくなる。
私の痛みだけがアウチ!であり、私がおいしいときだけがヤミー!である
端的な痛み、端的なおいしさ
私が致命傷を受けたときだけがアバーッ!であり、私の死だけがサヨナラ!であるという点で、私が致命傷を受けることや、私が死ぬことは特別な意味を持っていると言えるだろう?
エヴァンズの一般性制約的にかんがえると、私が痛みの内省に使う「痛み」の概念は、痛みを感じる主体を変数として含まれていない(もしそうだとすると、その主体の部分を変えた痛みの内省もできてしまうことになる)
「安倍晋三にとって、アバーッ!である」というとき、「安倍晋三にとって」の部分を様相、命題オペレーターのようにみなす
絶対→相対
命題オペレータを追加する
他者を命題オペレータとみなす?
相対→絶対
一番下の発話で限定継続のresetを行う
命題オペレーターの中の1つと私を結びつけ、「みんなの中の私」とする
命題オペレーターの1つをOとする
「(O(アウチ!) ⇔ アウチ!) ∧ (O(ヤミー!)⇔ヤミー!) ∧ …」が成り立つような唯一のOを 私 (I) とする
…というのではダメなのか、というと、そうすると他人の文脈の中ではその人が自分になってしまう?
Oとは別の命題オペレーターをNとする
N( I (アウチ!))
これは私が痛いのではなく、Nさんが痛いということになるはずだ。
「○○が成り立つ唯一のx」を確定記述に書き換える場合にどうするかという問題があるのでは
確定記述を命題オペレーターの中に入れるのか?
N((∃!O. (O(アウチ!) ⇔ アウチ!) ∧ (O(ヤミー!)⇔ヤミー!) ∧ …)
∧ (∀O. ((O(アウチ!) ⇔ アウチ!) ∧ (O(ヤミー!)⇔ヤミー!) ∧ …)) ⇒ O(ヤミー!)))
Nと相対的に「私はおいしいと感じる」
趣味に相対化しているものもあるが、おいしさが趣味に相対化されるという場合と、主体に相対化されるという場合はなにか
「趣味というのは、「sにとってfはおいしい」なるfを共有する主体sの集合である」というふうに、前者を後者に還元できるか。
継続は常に限定継続であるとする相対主義的な見方
最下位の発話がおこなわれるとき、shift/reset の reset あるいは runContのようなものがくっつく
「真の」トップレベルから取得するcall/cc
安倍晋三の「私のお母さんの「私は安倍晋三だ」発話は真である。」という発話
→偽
ayu-mushiのお母さんが、ayu-mushiを安倍晋三だと言っても、それは真ではない。
最下位の発話 (意味論を与えている発話ではなく、その1つ下) のところでresetを行う限定継続(shift/reset)
安倍晋三の「私のお母さんの「私は安倍晋三だ」発話は真である。」という発話
→真
これは「複数の主体が存在し、その皆が独我論的である」構造
最下位だけでなく、ネストが2回目の発話のところでもresetを行う限定継続(shift/reset)
「複数の主体が存在し、その皆が「複数の主体が存在し、その皆が独我論的である」論的である」構造
そもそも継続など取得しない
安倍晋三の「私のお母さんの「私は安倍晋三のお母さんだ」発話は真である。」という発話
→真
これは限定継続が積み重なった結果の極限として取得しないのと同じ結果になったとみなせる
「複数の主体が存在し、その皆が「複数の主体が存在し、その皆が「複数の主体が存在し、その皆が「複数の…である」論的である」論的である」論的である」構造
call/ccという考えからshift/resetという考えに移ったとしても、resetがかかっている式の内側から見ればresetはトップレベルであるということが本質的なのであって
ただ1人特別な主体が存在する (独我論)
「複数の主体が存在し、その皆が独我論的である」
「複数の主体が存在し、その皆が「複数の主体が存在し、その皆が独我論的である」論的である」
「複数の主体が存在し、その皆が「複数の主体が存在し、その皆が「複数の主体が存在し、その皆が独我論的である」論的である」論的である」
…
「複数の主体が存在し、その皆が「複数の主体が存在し、その皆が「複数の主体が存在し、その皆が「複数の…である」論的である」論的である」論的である」
存在するからと言って特別であると言っていないので、これらは両立不能な主張ではない
全て合わせて主張することも可能なはず
移動スポットライト説と永遠主義であれば、お互いに意味論を与えあうのはかんたんそう
移動スポットライト説の支持者の「前世紀のひとがいくら「いまは20世紀だ」と言っていようと、そのことは端的に真ではない。他でもない21世紀こそが、今なのだ。」という発話に、永遠主義的な意味論を与えることができる。
つまり、移動スポットライト説論者が誰かの発話に意味論や真偽値を与えようとする発話自体に、さらにメタ的な意味論を与える。
逆はかんたんだ。
とすると、累進構造というのは、お互いに相手の意味論を与えてメタ言語の側に立とうとすることで、自分の側こそが世界の基本構造を捉えていると主張しようとする仕草を指しているのか (?)
テッド・サイダーが世界に自然な切れ目があるみたいなことをいうのは、根源的なメタ言語というものがあるという主張に対応する?
「「「移動スポットライト論者の発話に永遠主義的な意味論を与えようとする永遠主義者の発話」に移動スポットライト説的な意味論を与えようとする移動スポットライト説論者の発話」に永遠主義的な意味論を与えようとする永遠主義者の発話」に移動スポットライト説的な意味論を与えようとする移動スポットライト説論者の発話に永…
egocentric presentismと通常の物理主義的 (もしくは心身二元論的) 実在論の間でも同じように意味論の与えあいが可能だ。
ただ、(スポットライト説でない)現在主義 vs. 永遠主義だと、意味論の与えあいができていると言えるのか怪しいラインになってくる。
未来者 (人間を超えるAI) や過去者 (恐竜) の存在論について考えない命題論理的な段階では可能では
私→ayu-mushi
ayu-mushi→私
本当に前者で失われているものはないのか
表と裏から見える同じもの
裏と表を同じ1つのものの部分だと考える、四次元主義のパースペクティブ版
斜めに向いて見た場合は?
第一基準
ayu-mushi.icon現実世界という概念を獲得するための第一基準を考えると
xメートル(先|後ろ|左|右)、y秒(前|後)にあるものたち、それらのみを部分として含む総体
その世界に相対的に起こっているということが端的に起こっていることでもあるようなただ1つの世界
私の第一基準
「この心的表象トークンがそれと整合性を保とうとし、根拠・確証となり、根拠となられるような、あるいはそれらの反射推移対称閉包でつながる、心的状態達の総体」
はどうか
独在性は中心性と現実性に分けられる
中心性はデイヴィッド・ルイスの centered world (中心化された可能世界) に似ているが、説明を読んでいるとやや異なるように見える
「ここ (here) 」という言葉は現実性を持つが中心性を欠いているので〈ここ〉とはならない?
量子力学の多世界解釈における「この世界」も「現実」と同じように扱えるだろう
中心性
自立的であること?
(人称の場合) 自己認識能力を持つこと?
自己認識能力や表象能力を欠いた主体も中心性を持つのか?
どうも自己認識が可能であれば実際にしていなくてもいいらしい
何の表象主体もいない時点や世界も中心性を持つのか?
現実に現実的
第6章
デカルト
それは知識ではあるが、その知識を真にする事実なるものは存在しないのではないか。
(それは永井の形而上学上はそういう事実が存在するのでは)
真理の対応説
別に「私が怖いときにだけその体に鳥肌が立つような特別な体があるという不思議」について考えてもいいわけで、それは自由意志に特有の問題ではないように思える。
永井均もヒンティッカのコギト論文とか、ルイスのattitude de dicto and de seとか読んでるんだ
@hitoshinagai1: ヘクター=ネリ・カスタニェーダって、この日本語表記でグーグル等で検索しても、石黒ひでが高く評価されたという情報以外何も得られないんだ! これはちょっと驚いた。こういう点でも、たしかに、日本語の情報世界は要所要所で閉ざされていますね。 "ヘクター=ネリ・カスタネダの発見も独在論的に解釈されねばならない"
"Ⅰ ザハヴィとシューメイカーの差異にマクタガートの書き換えによって生じる差異との同型性を見て取る"
シドニー・シューメイカー、ヘクター=ネリ・カスタネダ
なぜか一つだけ意識がむきだしになっている。そう他人に伝えても「私だって私にとっては意識がむきだしになている」と並列に理解されてしまう。しかし、たった一つ私の意識しか現にむきだしになっていないのだ。この独在する私とたった一つのはずの私が他人にも平等に分配されるという二つの世界像の重なりを再び丹念に論じていく。他者の私を疑うクオリアや哲学的ゾンビ問題はこの独在性を前提にすることで、真に哲学的な問題となる。ダン・ザハヴィの『自己意識と他性』を根源的に批判するなかで、シドニー・シューメイカーやヘクター=ネリ・カスタネダにも触れる。そして最終的にはその独在性があらゆる根拠と無関係に成立していることから、突然誰かがその独在する私になり得るのではないかという独在性の原理と、私であり続けさせ客観的世界を存続させる超越論的原理が背反するカントも発見しなかったアンチノミーへと逢着する。
Castañeda introduced the concept of the quasi-indexical (or quasi-indicator), a linguistic device by which one person can attribute an indexical reference to another. His discussion on this matter strongly influenced John Perry's theory of indexicals, an influence which Perry acknowledged in the first footnote of the paper "The Problem of the Essential Indexical" (1979).